マーヴィン・ゲイ



マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye 本名:マーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア 1939年4月2日生)
 [アメリカ・歌手]


 ワシントンD.C.出身。厳格な牧師の息子として生を受け、地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩である。歌と同時にピアノやドラムといった、いくつかの楽器の演奏技術も習得し、音楽の下地を養った。音楽に没頭するきっかけは、彼の父親の常軌を逸した躾であり、精神的な虐待であった。この悲劇的な側面は、後の彼の人生に大きな暗い影を落とすこととなる。

 学業を終え、空軍に入り除隊した後に彼は、ドゥーワップ・コーラスグループ「マーキーズ」の一員として活動を開始する。いくつかのグループを渡り歩くうちに実力をつけた彼は、デトロイトで公演した際に、モータウンレコードの社長であるベリー・ゴーディ・ジュニアにその才能を見出され、同レーベルでソロシンガーとしてのキャリアを踏み出すこととなる。いくつかの作品を出すうちに、少しずつシングルの売上も伸び始め、また、社長の実の姉であるアンナと結婚したことも弾みとなってか、『キャン・アイ・ゲット・ア・ウィッネス』、『ハウ・スウィート・イット・イズ』などのヒットシングルを生み出した。

 1971年、アルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表する。華麗で美しい楽曲と隙のない緻密なアレンジによる音楽性は絶賛を受け大ヒットを記録する。音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、このアルバムが、ベトナム戦争や公害、貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を赤裸々に表現したマーヴィンの熱唱であった。当時、シングル盤が中心であった黒人音楽の世界に、一つのテーマ、特に社会情勢などを元にしたアルバムを制作することは画期的なことであり、またこのアルバムで、内容に対して消極的になっていた会社に対して、マーヴィン自身がセルフ・プロデュースという制作体制で望んだことも大きな注目を集めた。自分の感じたままのことを干渉されずに作品にまとめ上げるというこのセルフ・プロデュースの姿勢は、同世代に活躍した黒人アーティストに大きな影響を与え、マーヴィンの行動に触発されたアーティストが、より自分の才能をいかしたより個人的世界を反映した作家性の高い、意欲的で充実した作品を多く生み出すことになり、「ニューソウル」という新しい音楽を確立することとなった。

 先妻との離婚の泥沼や二度目の結婚の失敗、本人の麻薬依存などが原因で私生活は混乱を極め、創作的な部分もかげりを見せ始め、一度は破産などのどん底の状態にあったマーヴィン・ゲイではあったが、1982年に『セクシャル・ヒーリング』が全米シングルチャートの3位を記録するヒットとなり、翌年の1983年には当時、飛ぶ鳥をおとす勢いであったマイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダーを抑え、グラミー賞を受賞するなど健在振りを見せつけた。

 しかし、1984年の4月1日、自宅で父親と口論になり、逆上した父親が彼に対して発砲、マーヴィンはそのまま帰らぬ人となった。皮肉にも、その日は彼の45回目の誕生日の前日にして、マーヴィンがリスペクトしたR&Bシンガーサム・クックと同じ死に方でもあった。また父親が発砲した銃は、生前彼がプレゼントしたものであった。

 1984年4月1日死去(享年44)


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