香月弘美



香月弘美(かづきひろみ 本名:小笠原弘恵 1936年8月21日生)
 [タカラジェンヌ]


 舞台の上で死ねるなら役者冥利に尽きる。そんな話はよく耳にするが、文字通り舞台で死んだ女優である。

 神奈川県出身。中学部の同級生で中学卒業後すぐ宝塚歌劇団に入った松島三那子の影響で、湘南白百合学園高等学校中退で宝塚音楽学校入学。初舞台は1954年4月の「宝塚春のをどり」。日舞の名手でもあり、娘役を得意としていた。

 1958年4月1日午後6時25分頃、兵庫県宝塚劇場の花組公演「春のおどり、花の中の子供たち」第12場トランプの国の場で事故は起きた。香月がステージからその地下へと下がっていく途中、乗っていたせり出し装置のシャフトに、着ていたドレスの裾が巻き込まれてしまう。彼女のドレスには、スカートを広げるための演出用として薄い鋼のベルトが仕込まれており、これが凶器と化した。スカートが巻き込まれたせいで、このベルトが彼女の腹部を締めつけ、その体を二つに切断した。彼女の乗っていた「セリ」と呼ばれる、舞台と地下を上下するせり出し装置はゆっくりと動く。おそらく、彼女のドレスもゆっくりと飲み込まれていったのだろう。じりじりと鋼のベルトが食い込み、その圧迫に耐えきれなくなったところで腹が割けてしまった。事故発見からスイッチ切断までに要した時間は15秒。彼女を即死させた後も、シャフトはまだ動いていたことになる。

 このとき一緒にセリに乗っていた松島三那子は先に降りたのだが、3歩ほど走ったところで、香月の「ヤメテー」という叫びがしたのと同時にバリバリという音、何かが飛び散る音を聞いている。驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、衣装ドレスの赤い生地がセリのシャフトにからみついて回っているのがみえたという。松島の衣装の背中には、血しぶきがかかっていた。小学校から幼なじみでもあった松島は、事故に気づいて泣きながら香月の名を大声で呼んだり「私が代わりに死ねばよかった」と叫んだりしながら暴れるなど、半狂乱状態に陥り、翌日の午前3時まで意識を喪失。その後、数日間失踪している。

 奇しくも香月の出演は風邪をひいた日夏有里の代役であった。事故を知った日夏もまた高熱を出し、1週間うなされたという。

 その日の公演は観客への説明もなく急遽中止。客席からは見えていなかった。翌日から公演は再開され「春のおどり、花の中の子供たち」自体は好評で、翌月も月組で続演された。

 医師の死亡診断書によれば、香月は腰の部分で切断され、右足がおしつぶされ、左足はヒザ下が骨折しており、上半身は異常がなかったという。

 事故当日の上演に宝塚音楽学校本科生ながら舞台実習として参加していた岸香織は、約40年後に著書『虹色の記憶』で「セリがいつものように沈んだ次の瞬間、舞台が激しく揺れ「ギャーッ」というものすごい悲鳴が、まさに断末魔の悲鳴が我々の耳に突き刺さったのだ」と回想している。

 4月3日下宿先での密葬、11日宝塚音楽学校三階講堂での劇団葬の後、香月弘美の荼毘に付された遺骨は実家へ搬送された。4月15日に実家経営の東京都の工場敷地で葬儀が営まれ団員関係者ら約380人が参列したという。戒名は香月院弘誓美恵大姉。5月20日には、宝塚音楽学校校庭に慰霊碑が建立された。

 香月弘美が宝塚歌劇団在籍中に発行された『歌劇』には、彼女の舞台写真や関連記事はほとんど見当たらない。香月は、歌劇団娘役としてごく目立たない存在だったと思われる(娘役として人気があり、花形を集めた「エレガントガールズ」を組んで、宝塚でも売り出し中だったとの説もあり)。松島三那子の回想では、1958年に入ってそろそろ宝塚を退団したいと松島に漏らしていた。その矢先に起きたのが、この事故であった。

 1958年4月1日死去(享年21)


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