逸見政孝



逸見政孝(いつみまさたか 1945年2月16日生)
 [アナウンサー/タレント]


 大阪府出身。早稲田大学第一文学部演劇学科卒。フジテレビの人気アナウンサーだったが、フリーに転向。いかにも真面目そうな風貌であるが、たまに見せるギャグなどが馬鹿馬鹿しく、そのギャップが大人気を呼び、ゴールデンタイムの番組で数多くの司会を担当。また、音楽番組では音痴であることを逆手にとって、場を盛り上げていた。

 しかし、人気絶頂の最中の1993年1月18日、担当医から「胃に初期の癌細胞を見つけた」と診断される。1週間後の1月25日に入院、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けた。逸見本人には胃の3分の2のみを取り除いたと伝えられたが、この際、晴恵夫人だけには院長から「ご主人の病状は、実際は初期の癌ではなかった。ギリギリの所で全ての癌細胞を取り除いたが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近い」と宣告されていた。そして逸見はわずか1ヶ月後の2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。

 同年9月3日、ようやく新宿区河田町の東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告され再々手術を決意する。その3日後の9月6日午後3時、日本テレビ内で緊急記者会見を行い、各局のワイドショーで生中継された。逸見は冒頭のコメントでこう述べている。
 「こういう(生中継の)形でのこういう(内容の)記者会見は賛否あると思いますが、私が入院してから事務所を通じてのコメントを出しますと、真意が伝わらなかったり、あるいは誤解を生じてもいけませんので、私の口から伝えることによって、皆さんに集まって頂きました・・・最初に皆さんにお詫びをしなければいけないのですが、今年の1月から2月にかけて私が入院いたしまして、手術、そして退院した時にやはり(記者会見に)集まっていただきました。そのときに私が発表した病名は大変申し訳無かったのですが、嘘の病名を発表致しました。(中略)本当のことを申し上げます。私が今侵されている病気の名前、病名は・・・癌です」

 記者会見の翌日から全ての仕事を休止。逸見は東京女子医科大学病院に入院して、本格的な闘病生活に入った。そして、9月16日に臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間、計13時間にも及ぶ大手術を受けた。大手術から1ヶ月が経過していた10月下旬に突然腹痛を起こして食べ物を嘔吐した。その後の検査結果が腸閉塞と判明。11月上旬から抗がん剤の投与が開始され、副作用の影響から日頃の表情豊かであった逸見とは程遠い姿に陥った。12月16日にはすでに切除して消滅したはずの癌が再び腸に見つかった事が再検査で判明。12月24日は、息子である太郎の誕生日だったが、遂に意識不明の危篤状態に陥った。

 そして早期復帰の願いも空しく、最初の癌発見から341日後、そして「私は1年後に亡くなるのは本意ではありません」と述べた記者会見からわずか3ヶ月半後の12月25日午後0時47分、癌性悪液質のため、東京女子医科大学病院で亡くなった。まだ48歳であり、あまりにも早すぎる死であった。

 結果的に癌の再発を根治することはできず、胃壁の中に広がる特殊な進行癌という特質上、死後「末期の状態であったにも関わらず、何故大手術を受けた(受けさせた)のか」「クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だった」といった疑問・批判の意見が多数あがった。当時の医学水準での意見として、手術も抗癌剤投与も行わず処置した方が、1年程度は長く生きることができたとの見方もあった。一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためには、このような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある。

 人気絶頂期にいた彼の死は、芸能界に止まらず日本国民に改めて衝撃を与えた。これは、死の直後にNHKも含めた各テレビ局がニュース速報で「闘病中の逸見さん、力尽きる」と伝えたこと、また古巣のフジテレビのみならず、他系列の民放各局でも追悼特番が組まれるなど、局アナ出身の芸能人としては異例の扱いを受けたことからも分かる。その後、新宿区にある千日谷会堂で12月26日に通夜が、12月27日に葬儀・告別式が行われた。通夜が終わった後には、TBS本社→テレビ朝日本社→テレビ東京本社→NHK放送センターを周り、告別式の後は、フリー後最初の他局レギュラーを持った日本テレビ本社、そして古巣のフジテレビ本社を経由し、午後5時20分落合斎場で荼毘に付された。棺には、遺体とともに『たけし・逸見の平成教育委員会』で着た学級委員長の制服も一緒に納められ、死化粧は、生前彼のヘアメイクを担当していたIKKOが施した。

 日本テレビで放送された緊急追悼番組にゲスト出演した天本英世は番組内で「自分の方が生き残ってしまった」「人間は年老いた者から順番に死んでいくものなのに、逸見さんはあまりにも早過ぎた」と、語気強く無念さを語った。さらに、「日本人はいかんですね。国から会社から社会から全てが狂ってますね。忙しいことがいいことなんて、とんでもない間違いですよ。俳優も忙しい人がいい俳優だなんて、とんでもないですよ。自分のことを考えなきゃね。会社のためとか国のためとかそんなものダメですよ。『平成教育委員会』なんか春に越真一プロデューサーが32歳で自殺したんですからね。これで2人目(の犠牲者)ですよ。この業界は狂ってる。僕はあんなもの(『平成教育委員会』)にケラケラ笑って出たくないです」、「仕事が趣味だって言うのはおかしい。断らなきゃダメなんですよ」と激昂し、その後、自身が亡くなるまで『平成教育委員会』には一切出演しなかった。

 親交が一番深かったといわれるビートたけしは、逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたその日から告別式の日まで酒を断ったという。「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語り、告別式の間は終始、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。

 1993年12月25日死去(享年48)


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