ジョン・F・ケネディ



ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy 1917年5月29日生)
 [第35代アメリカ合衆国大統領]


 マサチューセッツ州ブルックライン出身。1960年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補として指名を受け、対立候補の共和党のリチャード・ニクソンと歴史的な接戦の結果、わずかな差で破り、翌1961年1月20日に第35代大統領に就任した。大統領就任時43歳で、合衆国の歴史上、選挙で選ばれた大統領としては最も若い大統領であり、カトリック教徒として初の大統領であり、アイルランド系アメリカ人としても最初の大統領となった。さらに(著作『勇気ある人々』で)ピューリツァー賞を受賞した唯一の大統領である。ケネディの在任中、ピッグス湾事件、キューバ危機、ベルリンの壁の建設、米ソの宇宙開発競争、公民権運動の高まり、ベトナム戦争早期撤退計画の発表など多くの歴史的事件が発生しているが、特にキューバ危機の対応においては「第三次世界大戦」「米ソ全面核戦争」の危機を回避したと評価される。一般的には清新なイメージのリベラル派とされ、アメリカ国民からの期待も高かった若き大統領であった。

 1963年11月22日に、前日からテキサス州を遊説して、この日は大統領専用機でダラスに到着して空港から市内をへ向けてオープンカーでのパレード中に狙撃され、ケネディは暗殺された。43歳で大統領に就任してから、わずか2年10か月と2日の在任期間であった。この余りにも突然で衝撃的な事件は、全米を震撼させ、世界中に大きなショックを与えた。まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられた。

 ケネディ大統領夫妻はこの日、午前11時40分にテキサス州ダラス市郊外のラブフィールド空港に到着して、その後大統領専用車に乗ってコナリー州知事夫妻とともに市内をパレードしてヒューストン通りからエルム通りに左折して入った12時30分にディリープラザで後方のテキサス教科書倉庫ビルから3発の銃弾が発射され、その内2発が大統領に命中して、後の1発が大統領の後頭部に当たりこれが致命傷となった。

 ケネディ暗殺事件に関しては、直後に最高裁長官アール・ウオーレンを委員長とした調査委員会が設置されて、翌1964年9月に大統領暗殺に関する公式な報告がまとめられ、犯人とされた元海兵隊員のリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行という結論であった。しかし、暗殺の理由と暗殺者は多くの説があり、いまだに結論が得られていない。

 衣料販売店を経営するエイブラハム・ザプルーダーによって撮られた暗殺の瞬間の8ミリ映像(「ザプルーダー・フィルム」)では、大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、後方に動いている。その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、この映像はオズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。直後に大統領夫人が動揺した様子で後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、後方に吹き飛んだ大統領の頭部破片を拾うために這い出たことを後に裁判で証言している。実際、彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。また、大統領が撃たれた場所の前方の丘の上(グラシー・ノール)での不審な事象について複数の一般人の証言がある。これらは、射撃はすべて「後方から」リー・ハーヴェイ・オズワルド一人によって行われたとする暗殺真相究明委員会による政府側報告書と矛盾しており、陰謀の存在が指摘される理由となっている。

 結局暗殺犯とされたオズワルドは、警察の尋問に対し一貫して「はめられた」と主張するのみで、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送途上に市警本部の地下通路で、市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビーに射殺された。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。ルビーは1964年3月に殺人罪で有罪判決が下されるが、事件について多くを語らないまま4年後に肺塞栓症によりダラスのパークランド病院で死亡した。

 結局多くの謎を残したまま捜査が終了し、陰謀説も多い事件として半世紀が過ぎた現在でも論議を呼ぶ事件となっている。

 1963年11月22日死去(享年46)





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