ジョン・レノン



ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(John Winston Ono Lennon 1940年10月9日生)
 [イギリス・ミュージシャン]


 リヴァプール出身。世界で最も成功したシンガー・ソングライターの一人であり、1960年代に世界的人気を得たロックバンド、ザ・ビートルズの主要メンバーであった。ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作し、メイン・ボーカルを務めた。バンドの活動期間内に母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間1位を獲得した。11作の週間1位獲得合計数は162週。年間売り上げ最高アルバム獲得数4作と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続1位獲得30週はいずれも1960年代の最高数。シングルは22作発売し、その内17作が1位を獲得。さらにアメリカを初め各国でも高いセールスを記録し、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。1970年のビートルズ解散後はソロ・シンガーとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。

 1980年12月8日午後5時、ヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。この時、ダコタ・アパートの前には顔見知りの雑誌カメラマンと、ハワイ・ホノルル出身の精神疾患を患ったファン、マーク・チャップマンが待ち構えていた。この時チャップマンはレノンに歩み寄り、持参した『ダブル・ファンタジー』のジャケットにサインをねだる。レノンは二つ返事でそれに応じたが、この時の様子を雑誌カメラマンが撮影。皮肉にも、レノンの生前最期の写真は、数時間後に自らの生命を奪う事になる殺人犯とのツーショットになってしまった。チャップマンは数日前にニューヨーク入りしており、宿泊したホテルの宿泊名簿の署名欄には、自らを「John Lennon」とサインしている。殺害当日の大半をダコタ・ハウスの近くで留まり、夕方にレノンにサインをもらったあと、両親を見送りにベビーシッターに抱かれて出ていたレノンの息子ショーンとも握手をしている。

 レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは新作や近況についてや、学生時代に結成したビートルズの原型となるスキッフルバンド「クオリーメン」のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについても、語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」など、まるで数時間後に自らに降りかかる悲劇を予言するかのような発言を残している。

 午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。レノンとオノが車から降りたとき、その場に待ち構えていたチャップマンは暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると同時に、リボルバー拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、二人の警官が彼をパトロールカーの後部に乗せ近くのルーズベルト病院に搬送した。一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、ジョンの声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で午後11時過ぎに死亡した。

 事件後チャップマンは現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで小説を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。病院でレノンの死を伝えられたオノ・ヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョン・レノンが死亡したことを確認した。博士は「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。

 ジョンの射殺に関しては、当初「FBI関与説」なども持ち上がったが、現在は、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている(しかしオノやショーンはそれを信用していないと言われている)。また、当時「チャップマンはレノンの熱烈なファン」という報道が飛び交ったが、同犯人はある種の精神疾患的な症状があり、「熱烈なファン」という説明自体も疑問視されている。

 この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。カナダに滞在中だったリンゴ・スターは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻のリンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲としてそれぞれ発表した。また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズは「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れることはなく増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ちころしてやる」と発言している。日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。

 1980年12月8日死去(享年40)


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