浅沼稲次郎



浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう 1898年12月27日生)
 [政治家]


 東京生まれ。早稲田大学出身。1925年、日本で最初の単一無産政党である農民労働党の結成に参加、同書記長となり、のち無産政党の幹部を歴任。第二次世界大戦後、日本社会党の結成と同時にその活動に加わり、1948年には書記長となり、1955年社会党統一後に再度党書記長の座についた。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓」「人間機関車」の異名を取った。

 1960年10月12日、日比谷公会堂では、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出たので、司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

 浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部捨てておいて、選挙で多数を占むると…」と言いかけた午後3時5分頃、突然17歳の少年・山口二矢が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの短刀(のちに銃剣と判明)で浅沼の胸を2度突き刺した。浅沼は、刺された後によろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書官が浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断され、巨漢の脂肪で外出血はせず内出血による出血多量によりほぼ即死状態(側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという)で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。

 山口二矢はその場で現行犯逮捕、取調べに対し山口は若年ながら理路整然と受け答えしていたという。11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」も残している。

 この立会演説会にはNHKが共催として参画しており、NHKのラジオ第1で中継されていた。そのため、事件の一部始終はラジオを通じてそのまま同時に日本全国へ放送された。事件はまた、放送そのものにも影響をもたらした。事件以前から指摘されており方針が決まっていたテレビ番組からの暴力場面の追放の動きについても、この事件がきっかけとなって大きく加速していった。この事件の犯人は少年だったこともあり、この事件をきっかけに「子供に刃物を持たせない運動」が始まった。それにより、それまでは鉛筆削りや工作に使用していた肥後守をはじめとする刃物が子供から取り上げられ、以後続く刃物規制の始まりの一つとなった。

 1960年10月12日死去(享年61)





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