本田美奈子.



本田美奈子.(ほんだみなこ 本名:工藤美奈子 1967年7月31日生)
 [歌手/女優]


 東京都生まれ、埼玉県育ち。歌手になる事を夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。中学校時代に『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会にまで進出した。しかしプロダクションからのスカウトはされなかった。

 1983年4月、東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際に、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。当初の少女隊のメンバーという構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになった。高校2年生の1984年9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、グランプリを受賞。このことがレコードデビューのきっかけとなった。

 1985年4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビューした。その後、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。1986年2月5日に「1986年のマリリン」をリリースし大ヒット。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。

 1990年、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。歌唱力、演技力を高く評価され、1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。以後も『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位を揺るぎないものにした。

 2000年前後にはクラシックへの志向を強めていく。クラシックの楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたコロムビアのプロデューサー、岡野博行の目に留まり、アルバム制作の申し入れを受けた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。2003年5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。

 2004年末頃から風邪に似た症状がなかなか治まらないため、2005年1月に病院の検査を受けたところ、急性骨髄性白血病と診断され緊急入院。その後、2度に渡る化学療法を受けるも、寛解は得られなかった。急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けた。同年7月末には一時退院できるまでに回復した。しかしわずか1ヶ月後の8月31日に染色体異常が見つかり9月7日に再入院した。10月には再び一時退院したものの、同月21日に染色体異常が発見され三度目の入院となった。そして11月3日に肺に合併症を発し容態が急変。11月6日午前4時38分、家族らの見守る中、息を引き取った。

 38歳の若さでの本田の死は社会に衝撃をもって受け止められた。本田の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列した。彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになった。また、本田の評価やCDの売上げにも大きな変動をもたらした。死亡する半月ほど前に発売されたミニアルバム『アメイジング・グレイス』は売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破し、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコンTOP10入り(7位)を記録した。本田の死を受けて日本レコード大賞(第47回)は特別功労賞を、ゴールデン・アロー賞は芸能功労賞を贈呈した。

 2005年11月6日死去(享年38)


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