ダイアナ妃



ダイアナ・フランセス・スペンサー(Lady Diana Frances Spencer 1961年7月1日生)
 [イギリス・チャールズ王太子の元妃]


 イングランド・ノーフォーク州サンドリンガム出身。イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれる。両親は1967年から別居し、1969年に離婚、ダイアナら子供の親権は父が獲得した。弟チャールズとともにパークハウスで育てられたが、1970年にはノーフォークの寄宿学校リドルズワース・ホール学校に入学、ついで1973年にケント州にある寄宿学校ウェスト・ヒース学校に入学した。1977年に姉セーラと交際していたウェールズ公(皇太子)チャールズと初めて出会った。同年末にスイスにある花嫁学校アルパン・ヴィデマネット学院に入学するも、すぐに帰国し、ロンドンで一人暮らしを始める。1979年に王室のサンドリンガム邸のパーティーで皇太子と再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、1980年に交際が深まった。

 1981年2月24日チャールズ王太子と婚約、同年7月29日、20歳の時にチャールズ王太子とロンドンのセントポール大聖堂で結婚する。1982年5月から皇太子とともにケンジントン宮殿で生活をはじめ、ウィリアム王子とヘンリー王子の2子を儲けるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。ダイアナは過食症に苦しむようになり、皇太子も1980年代半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、ハイグローヴ邸で暮らすことが増え、カミラとの交際を再開するようになる。チャールズとカミラの交際が世間に知れ渡り、夫婦は1992年12月9日に別居し、1996年8月28日に正式離婚した。

 1997年8月31日に、フランスの首都のパリで、当時の恋人であるエジプト系イギリス人の大富豪のドディ・アルファイドとともにパパラッチに追跡された果てに、乗車したパリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツS280のハイヤーがパリ市内のトンネル内で交通事故を起こし急逝した。

 ダイアナは事故直後は生存しており救急隊員に対応していたため、うわ言で「Leave me(私に構わないで・放っておいて)」、「オー・マイ・ゴッド(なんていうことなの)」と言い続けていたという。また、事故直後の現場にはなお9人ものパパラッチが居合わせていたが、救助活動にも手を貸さず彼女の写真を撮り続けていたという。

 BBCでは「足に重傷を追ったが生命は無事」と報道していたものの、その後間もなく事故の際に受けた脳損傷などが原因で死去した。ダイアナの急死のニュースは世界中のマスメディアがただちに各国へ配信、世界中が驚愕することとなった。

 その後の調べで、運転手が抗うつ薬を飲んでいた上、相当量のアルコールが検出され、ダイアナ妃とアルファイドが婚約する予定だったということが報道されると、謀殺説が一気に広まった。

 パパラッチが追っていた最中の事故だが、誰も事故の瞬間を目撃していない。いや、目撃者はいないことになっている。フィルムはすべて没収された。事故当時、ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、王室の異父兄弟にイスラム教徒が誕生することをおそれる何者かがイギリス情報局秘密情報部(MI6)を動かしたとする暗殺説が流布された。

 だが、これらに対する証拠は一切無いとし「陰謀論に過ぎない」と見做している人々も多い。パパラッチの追跡を逃れようと、160キロ以上という非常に高速でパリ中心部の一般道路を走行した末、トンネル直前で合流路から進入してきたパパラッチが所有する白いフィアット・ウーノをよけようとして接触し、トンネル内の道路側壁に激突したという事実は証明されているといわれている。この白塗りウーノの運転者は未だに当局に出頭していない。

 1997年8月31日死去(享年36)


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