土方歳三 (1835〜1869) 武州多摩郡桑田村石田で生まれる。1859年、土方は天然理心流の門人となるがこの時二十五歳でかなり遅い入門であった。1863年幕府呼びかけの浪士組に近藤・沖田らと加盟し上洛。清河らの帰府に従わず、芹沢らと京に残留。会津藩松平肥後守御預り浪士組となり、副長と なる。この年に局長に就いた芹沢、新見を粛正し、隊内の規律を強める。1864年の池田屋事件では23両のも褒賞金を賜った。1867年、御陵衛士を拝命し隊を分離した伊東甲子太郎を油小路で要撃。伊東一派を壊滅させた。鳥羽伏見の戦いでは新選組を指揮するも、江戸へ敗走。甲州勝沼の戦いの後、下総流山に陣をはるが近藤勇は投降。その後各地を転戦し、会津に落ちる。 母成峠で新政府軍と死闘を繰り広げるが圧倒的な兵力の違いには勝てず敗走、榎本艦隊が仙台にいるのを聞きつけて参戦に向かう。仙台藩に奥羽列藩の抗戦を唱えるが、新政府に恭順を唱えたので断念。土方らは箱館に向かい蝦夷に上陸。土方は松前城を攻略した。蝦夷共和国が誕生し、陸軍奉行並に選出されるが、1869年、宮古湾で甲鉄艦を奪取する為に奇襲するも失敗。四月、新政府軍は五稜郭に向かって進軍。土方は二股口で善戦するもやむなく撤退。孤立した弁天台場を救出すべく五月十一日額兵二小隊だけで向かうが、一本木、異国橋間の戦闘中に被弾戦没。壮絶な最後であった。 [先頭ページを開く] [指定ページを開く] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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