新美南吉



新美南吉(にいみなんきち 本名:新美正八 1913年7月30日生)
 [児童文学作家]


 愛知県出身。1913年、畳屋を営む父と母の次男として生まれる。この前年に生まれ、生後わずか18日でなくなった長男の名をそのまま付けられた。これは父親が2人分生きてほしいとの願いが込められている。1917年11月4日、母が逝去。1920年、半田第二尋常小学校入学。おとなしく目立たない児童で、体は少し弱かったが成績は良かった。

 1926年、旧制愛知県立半田中学校へ入学。16歳より童謡、童話の創作を始め、1931年、18歳で母校・半田第二尋常小学校代用教員となる。一方、文芸誌『赤い鳥』に童謡・童話を投稿し、「正坊とクロ」、「張紅倫」が入選。退職後、北原白秋門下の童謡雑誌『チチノキ』に加入。

 1932年1月、『赤い鳥』1月号に童話「ごん狐」が掲載される。4月、東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科文学に入学。その後、『チチノキ』編集のかたわら、童謡・小説の創作を続けるが、在学中に喀血。卒業後、神田の貿易商会に勤めたが、二度目の喀血をして11月に療養の為に帰郷。

 河和小学校の代用教員、安城高等女学校の教諭を務めながら数々の作品を発表し、世間に注目されはじめる。1941年より、初の単行本『良寛物語 手毬と鉢の子』や、初の童話集『おぢいさんのランプ』など、作品が相次いで出版されるようになるが、1943年1月に病状が悪化し、2月には安城高等女学校を退職。

 1943年3月22日、咽頭結核により夭逝。最期の言葉は「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ。自分の寿命が短くて…波紋が小さすぎるのが残念だ。くやしい…。」であった。

 葬儀は学校行事が多忙であったこと、伝染病である結核が死因であったことなどから、およそ1ヶ月後の4月18日に行われた。現在は半田市の共同墓地である北谷墓地に葬られている。

 地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。

 出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。

 1943年3月22日死去(享年29)


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