前野光保



前野光保(まえのみつやす 1946年6月21日生)
 [ポルノ俳優]


 東京都生まれ。実家は布団店である。小学校高学年の時に劇団ひまわりに入り、子役として活躍。吉永早百合主演の「潮騒」にも出演した。真面目な性格で、特に英会話の勉強に熱心だった前野は明星学園から法政大学に進学したが、なぜか1年で中退している。

 1967年7月、女優・黒澤のり子と結婚。しかし、俳優として大成するために、米・カルフォルニア大学に2年間留学し、演技を学んだ。帰国した後は日活の「ニューアクション」シリーズなどに出演していた。

 1971年頃からポルノに転向した前野は「前野霜一郎」という芸名で20本ほどの映画に出演。1972年、アメリカ人女性と再婚して、女児をもうけたが、1975年に離婚。1976年2月、新潟県のスキー場で離婚を苦に服毒自殺を図っている。警察の事情聴取に対して、「自分でシナリオを書くために、死を体験する必要があった」と供述した。

 1976年2月、アメリカの航空機製造大手のロッキード社の旅客機の受注をめぐる世界的な大規模汚職事件(ロッキード事件)が明るみになる。大物右翼のフィクサーと呼ばれていた児玉誉士夫(当時65歳)は事件の核心を握る中心人物と目され、1976年2月から衆議院予算委員会において証人喚問がおこなわれるはずであったが、直前に病気を理由に出席しなかった。なお、児玉は脱税などにより3月13日に起訴されていた。

 その後、児玉の態度に怒った前野は同年3月に児玉の豪邸へ小型軽飛行機による自爆テロ(児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件)を決行することとなる。

 1976年3月23日、前野は前日に日活の衣装部屋から持ち出した旧陸軍特攻隊の制服を着て、「七生報国」と書かれた日の丸のハチマキを巻いて、東京都の調布飛行場に姿を現した。飛び立つ前には乗りこみ口でポーズを決めて記念撮影も行なっている。

 新宿上空で写真撮影を行うために、機長とカメラマンら3人が搭乗したセスナ172M型機と前野が乗るPA-28-140型機の2機で調布飛行場を出発。その撮影を終えて戻る途中、前野は別ルートを取って東京都世田谷区の児玉邸に向かった。午前9時50分頃、児玉邸上空を低空で2回旋回した後、降下角5度で2階のベランダからそのまま突撃。衝突時に機体は胴体から分断され、ベランダに乗り上げた機首部が児玉邸のグリルシャッターを内側に湾曲破損。その衝撃で破損した燃料タンクから軽油が飛散して機体は爆発炎上、2階部分約80平方メートルを焼いて鎮火した。

 突撃された茶室の隣室で就寝していた児玉は無事、家政婦が軽傷。機体の残骸から発見された前野の遺体は黒焦げだった。前野は特攻直前の無線通信では「天皇陛下万歳!」と叫んだという。この行為に対しアメリカのメディアは「最後のカミカゼ」などと報道した。

 前野は児玉に敵対する左翼思想の持ち主ではなく、むしろその逆であった。かつては右翼の運動家であった児玉に心酔しており、また、三島由紀夫にも心酔していた。そうした中、ロッキード事件に絡んで起訴された児玉に対し、前野は「利権屋」と断じ、「天誅を下すべき」だとの思いから特攻に及んだものであった。事件前に犯行計画を知人に話していたという。また、警視庁は背後関係はなく前野の単独犯と断定している。

 1976年3月23日死去(享年29)


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ