火野葦平



火野葦平(ひのあしへい 本名:玉井勝則 1907年1月25日生)
 [小説家]


 福岡県生まれ。小倉中学校時代から文学に関心をよせ活発に活動。第一高等学院入学後、童話集を自費出版する。1926年、早稲田大学英文科に入学し、寺崎浩や田畑修一郎らと同人誌「街」を創刊、小説や詩を発表していたが、1928年、兵役で福岡第24連隊に入営。除隊後は大学に戻らず、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向し、地元の同人詩誌「とらんしつと」に参加して再び文学活動を開始する。

 1930年8月に日野徳七の養女で芸者の徳弥こと日野ヨシノと結婚、9月には長男闘志が生まれる。1934年筆名を火野葦助から火野葦平にあらためる。

 1937年、日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』の第6回芥川賞受賞を陣中で知る。戦地で行なわれた授賞式には日本から小林秀雄がおもむいた。その後報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人気作家となり、帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。太平洋戦争中も各戦線におもむき、従軍作家として活躍した。攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。

 戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、1948年から1950年まで公職追放を受けるが、追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で往復するなど活動し、九州男児の苛烈な生き方を描いた自伝的長編『花と竜』や自らの戦争責任に言及した『革命前後』など数多くの作品によって文学的力量を発揮し、再び流行作家となった。

 1960年1月24日、自宅の書斎で死去しているのが見つかった。最初は心臓発作と言われたが、1972年、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「高血圧症状がおこってからまったく健康に自信がなくなった。いつ倒れるかわからない。しかし、クヨクヨしてもしかたがないので、今倒れて死んでもかまわない心境になった。日本文学史上に残る作品をいくつも書いたし、作家としては本望だ。大した才能もないのに作家として世に立ち得たことは、私の幸福であった。睡眠薬で死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。その結果、睡眠薬自殺と判明した。このことは13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた。この自殺は、60年安保に向けて騒然としていた世情と関係があるともいわれている。

 1960年1月24日死去(享年52)


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