ローランド・ラッツェンバーガー



ローランド・ラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger 1960年7月4日生)
 [オーストリア・レーシングドライバー]


 ザルツブルク生まれ。5歳のとき観戦したレースがきっかけで、レーシングドライバーになることを決意。父の勧めで入った大学を中退してレース活動を開始した。1981年から2年間ジム・ラッセルレーシングスクールでメカニックとして働いて活動資金を得て、1983年にドイツでフォーミュラ・フォードでレースデビュー。1986年イギリスで行われたFF1600・フェスティバルで優勝。1987年からイギリスF3に進出。ツーリングカーレースでもBMWのワークスチームであるシュニッツァーのレギュラードライバーになる。1989年、イギリスF3000参戦のかたわら、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にトヨタのセミワークスのサードから参戦。1990年は全日本F3000にも参戦するが、開幕戦で予選落ち。以後数レースにスポット参戦。全日本ツーリングカー選手権(JTC)にBMW・M3で参戦。また1992年・1993年にはステラから全日本F3000に再び参戦して1勝を挙げるなど、日本のレース界との関わりは深かった。

 1994年、下位チームで、新興チームであるシムテック・フォード、しかも5戦のみの契約という状況とはいえ、念願のF1のシートを獲得する。しかし、第3戦サンマリノGPにおいて、4月30日の予選二日目でのタイムアタック中、高速ビルヌーヴコーナー手前でフロントウイングが脱落。コントロールを失い、マシンは時速310キロでコンクリートウォールに激突した。病院に搬送されたものの、頚椎骨折、内臓破裂などでほぼ即死の状態だった。レースウィーク中では、1982年のリカルド・パレッティ以来12年ぶりに発生した死亡事故であり、F1マシンドライブ中でも1986年のエリオ・デ・アンジェリス以来8年ぶりとなった。

 事故死の前年まで日本を主体に活動し、その期間も4年と比較的長かったことから、突然の訃報は日本国内のレース関係者やファンにも大きな衝撃を与えた。また、恋人カティーシャとは結婚目前だったという。

 事故の衝撃は、強度の高いカーボンモノコックに穴が開くほどのものであり、ラッツェンバーガーの体は露出していた。突然ウイングが脱落した要因については、事故の直前の周に一度コースアウトしており、そのときにフロントウィングにダメージを受けていた可能性が高いと言われている。当時はカーボンモノコックの強度の高さから、「もうF1で死亡事故が起こることはない」とまで言われていたため、死の衝撃は大きかった。この年はレギュレーションの大幅改正により、開幕前から安全性に疑問の声が上がっていた。開幕前のテストでは、J.J.レートが負傷し2戦を欠場、開幕戦後、ジャン・アレジも同じくテスト中の事故で負傷し、その後の2戦を欠場している。

 ラッツェンバーガーの事故が起こったサンマリノGPでは、前日にルーベンス・バリチェロが大クラッシュで鼻を骨折、決勝ではアイルトン・セナの死亡事故が発生。安全神話は完全に崩壊し、呪われた週末と言われた。その後も第4戦のモナコGPフリー走行の事故でカール・ヴェンドリンガーが意識不明の重体に陥り、モナコGP後のテストでペドロ・ラミーが事故を起こし、脚に全治1年とも言われた重傷を負う。さらに続くスペインGPの予選でも、ラッツェンバーガーに代わってチームに加入したアンドレア・モンテルミーニが両足を骨折する事故を起こすなど、重大事故が多発。安全性が軽視されていた状況が浮き彫りになり、レギュレーションがシーズン途中で変更される事態となった。

 1994年4月30日死去(享年33)


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